アウシュビッツ収容所1
クラコフ2日目は朝からアウシュビッツへ行きました。その途中クラコフ市内のユダヤ教会(シナゴーグ)に寄りました。下1がそうです。かなりキリスト教会とは作りがちがいます。拡大してご覧下さい。下2はその教会の前で多くのユダヤ人がナチスに銃殺された現場にある慰霊碑です。ここも花が飾られてありました。
下3はこの教会の近くにあったユダヤ人ゲットーの壁です。一部ですが当時のまま残っていました。
この壁の中に押し込められたのです。
1は、映画「シンドラーのリスト」に出てくるシンドラーの工場の門です。中は別な会社になっていますが、この門だけは当時のまま残っていました。さてここから郊外へバスで1時間ぐらいで、アウシュビッツ収容所跡へ到着しました。ここの地名はオシフィエンチムと言うのです。アウシュビッツはナチスが付けたドイツ名なのです。
ポーランドの地図を見ていてアウシュビッツがなかったので不思議に思っていたのですが、そういう訳があったのです。下2は有名な収容所の門です。上に「ARBEIT MACHT FREI]の文字が見えます。「働けば自由になる。」と言う意味ですが、働いても死しかなかったのです。下3は当時のまま残る鉄条網です。当時はここに220Vの電流が流れていてしかも二重だったのです。右の建物が収容所です。
ここは初め1940年にポーランド政治犯を収容するために造られたのです。しかし戦争が拡大する中でここへ全ヨーロッパから色々の国籍を持つユダヤ人が送り込まれたのです。ちょうどここはヨーロッパの中心にあり各地から送り込むには最適の位置にあったのです。そして、到着したユダヤ人をすぐに働ける者とガス室へ送る者とに選別したのです。
70%から75%の人がガス室送りになったのです。そして働けると判断された人々は下1の建物に収容されました。収容されても1日の食事のカロリー数は1300から1700カロリーにすぎなかったのです。朝は500ccのコーヒーと呼ばれた液体、昼は1リットルのほとんど水のような腐った野菜で作られたスープ、夕食は300から350グラムの黒パンと3グラムのマーガリンと薬草の飲み物だけだったのです。労働も重労働で栄養失調になり体はすぐに衰弱して死に至ったのです。
ガス室送りにはならなかった人々ですが、同じく最後は死だったのです。収容所は2階建ての建物が28棟ありました。最大で収容者が28000人いたそうです。1棟あたり1000人です。40から50人用の部屋に通常200人が押し込まれたのです。各部屋に3段ベッドまで造られ、地下室、屋根裏までベッドがあったのです。
支給の毛布も穴の空いたぼろぼろのしかなく、囚人服も生地が薄く、冬の寒さには耐えられないものでした。また、何ヶ月毎に下着はもらえましたが、それを洗濯する事も出来なかったのです。下2,3も囚人棟です。外からは良いように見えますが、中では劣悪な生活条件だったのです。
下1は、鉄棒台ではありません。集団絞首台なのです。ここで見せしめの為に処刑したのです。1例を挙げますと、1943年7月19日に3人の脱走者を助けたという理由と収容所周辺の一般市民と連絡を取ったという疑いをかけられたポーランド人12人が処刑されたのです。下1は囚人受け入れ所です。ここで入所する前に、カバンや、持ってきた金目の物を残らず没収されたのです。
大戦中にここで殺された人の数は不完全ながら残っている資料から推測して約150万人だそうです。大量殺戮工場だったのです。収容所だった期間を5年とするとアウシュビッツだけで1日平均800人余りの人が犠牲になったのです。考えられない数字です。そしてヨーロッパ全体のユダヤ人犠牲者の数は約600万人と言われています。
当時1500万人いたとされているので何と3分の1になるのです。ちなみにポーランドだけで1939年の人口は、3500万人だったのですが、戦後には2300万人になったのです。1300万人の人々が犠牲になったのです。そのうちユダヤ人は、戦前270万人いたのが、戦後には46万人までになってしまったのです。なんと6分の1です。いかにナチスの殺戮がここポーランドでは激しかったかがわかります。
上3も絞首台ですが、今までのとは違います。この収容所の所長のルドルフ・ヘス(同姓同名ですが副総統のヘスではありません。)が敗戦後逃亡していたのですが、逮捕されてここに連れてこられて絞首刑を執行された台なのです。時は1947年4月16日だったのです。次頁では棟の内部へ入ります。